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東京地方裁判所 平成12年(合わ)199号 判決 2000年12月27日

主文

被告人A子を禁錮一年に、被告人B子を禁錮八月に処する。

被告人両名に対し、この裁判確定の日から三年間それぞれその刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人両名の連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人両名は、東京都渋谷区《番地省略》所在の東京都立A野病院整形外科に勤務する看護婦として、医師による患者に対する医療行為の補助等の業務に従事していたものであるが、慢性関節リウマチ治療のため左中指滑膜切除手術を受けた入院患者であるC子(当時五八歳)に対し、主治医であるDの指示により、平成一一年二月一一日午前八時三〇分ころから、同病院整形外科五二〇病棟五号室において、点滴器具を使用して抗生剤を静脈注射した後、血液が凝固するのを防止するため、引き続き血液凝固防止剤であるヘパリンナトリウム生理食塩水を点滴器具を使用して同患者に注入するに際し、

一  被告人A子において、患者に投与する薬剤を準備するにつき、薬剤の種類を十分確認して準備すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、午前八時一五分ころ、同病棟処置室において、C子に対して使用するヘパリンナトリウム生理食塩水を準備するに当たり、保冷庫から注射筒部分に黒色マジックで「ヘパ生」と記載されたヘパリンナトリウム生理食塩水一〇ミリリットル入りの無色透明の注射器一本を取り出して処置台に置き、続いて、他の入院患者であるE子に対して使用する消毒液ヒビテングルコネート液を準備するため、無色透明の注射器を使用して容器から消毒液ヒビテングルコネート液を一〇ミリリットル吸い取り、この注射器を右ヘパリンナトリウム生理食塩水入りの注射器と並べて処置台に置いた後、右ヘパリンナトリウム生理食塩水入りの注射器の注射筒部分に黒色マジックで書かれた「ヘパ生」という記載を確認することなく、漫然、これを消毒液ヒビテングルコネート液入りの注射器であると誤信して、黒色マジックで「6、E子様洗浄用ヒビグル」と手書きしたメモ紙をセロテープで貼り付け、他方、もう一本の消毒液ヒビテングルコネート液入りの注射器をヘパリンナトリウム生理食塩水入りの注射器であると誤信して、これを抗生剤と共にC子の病室に持参し、午前八時三〇分ころ、同患者に対し点滴器具を使って抗生剤の静脈注射を開始すると共に、消毒液ヒビテングルコネート液一〇ミリリットル入りの注射器を同患者の床頭台に置いて誤薬を準備した過失と、

二  被告人B子において、患者に薬剤を投与するにつき、薬剤の種類を十分確認して投与すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、午前九時ころ、C子から抗生剤の点滴が終了した旨の合図を受けて同患者の病室に赴き、引き続きヘパリンナトリウム生理食塩水を同患者に点滴するに当たり、ヘパリンナトリウム生理食塩水入りの注射器には注射筒の部分に黒色マジックで「ヘパ生」との記載がされているのであるから、「ヘパ生」の記載を確認した上で点滴すべきであるのに、これを確認することなく、同患者の床頭台に置かれていた注射器にはヘパリンナトリウム生理食塩水が入っているものと軽信し、漫然、同注射器内に入っていた消毒液ヒビテングルコネート液を同患者に点滴して誤薬を投与した過失の競合により、同患者の容態が急変し、その連絡を受けた同病院医師Fの指示により、午前九時一五分ころ、血管確保のための維持液の静脈への点滴が開始されたが、維持液に先立ち、点滴器具内に残留していた消毒液ヒビテングルコネート液を全量同患者の体内に注入させることになり、よって、そのころ、同所において、同患者を消毒液ヒビテングルコネート液の誤投与に基づく急性肺塞栓症による右室不全により死亡させたものである。

(証拠の標目)《省略》

(法令の適用)

被告人両名の判示各所為はいずれも刑法六〇条、二一一条前段に該当するところ、所定刑中いずれも禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人A子を禁錮一年に、被告人B子を禁錮八月に処し、情状により同法二五条一項を適用して、被告人両名に対し、この裁判確定の日から三年間それぞれその刑の執行を猶予し、訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文、一八二条により被告人両名に連帯して負担させることとする。

(量刑の事情)

本件は、都立A野病院において、手術を受けた入院患者である被害者に抗生剤を点滴した後、引き続き血液凝固防止剤を点滴するに当たり、被告人A子において、これと消毒液とを取り違えて被害者の床頭台に準備し、被告人B子において、床頭台に準備された薬剤の確認を怠って消毒液を被害者に点滴したため、被害者を死亡するに至らせたという、病院看護婦である被告人両名の過失が相重なって引き起こされた業務上過失致死の事案である。

被告人A子は、血液凝固防止剤入りの注射器には黒マジックで「ヘパ生」と書かれているので特定の必要はなく、消毒液入りの注射器には何も書かれていないので特定する必要があったところ、不注意にも特定する必要のない血液凝固防止剤入りの注射器の方に消毒液である旨のメモ紙をセロテープで貼り付け、特定する必要のある消毒液入りの注射器の方を何の特定もしないまま被害者の病室の床頭台に置いて準備したのであり、薬液を取り違えてはならないという、基本的な注意義務を怠ったものであって、通常は考えられない初歩的な過誤を犯したものである。また、被告人B子は、抗生剤の点滴終了の連絡を受けて引き続き被害者に血液凝固防止剤を点滴するに当たり、床頭台に置かれていた薬剤入りの注射器を確認すれば、本来、あるべき「ヘパ生」の記載がないので、血液凝固防止剤でないことに気づくのに、自分で準備した薬剤でもないのに、その何であるかを確認しないまま被害者に点滴するという、これまた基本的な注意義務を怠ったものである。そして、生じた結果は被害者が死亡するという重大、深刻なものである。被害者は、未だ五〇歳代の女性であり、慢性関節リウマチ治療のため入院して左手中指の手術を受けたのであるが、それは生命に危険を及ぼすような病気や手術ではなく、術後の経過は良好で入院期間一〇日間位で退院できる予定であったのに、信頼していた病院の看護婦による誤薬投与のために、突然苦しみに襲われ、苦しみながら命を落としたのであって、被害者の無念さは察するに余りあり、また、被害者が元気に退院する日を待っていた遺族らの悲嘆も大きいことなどにかんがみると、被告人らの刑事責任は重大であると言わなければならない。弁護人は、都立A野病院では本件のような死亡事故には至らない誤薬事故は年間三〇ないし四〇件程度繰り返されてきたのに、その対策が不十分であり、本件は都立A野病院の業務遂行についての体制上の不備に起因するところがあって、被告人両名の個人的な「単純ミス」と片づけてよいものではなく、本件後に改善された点もあるので、この点は、被告人両名の責任を考える上で考慮すべきであるというが、誤薬事故をなくすために、関係者が業務遂行体制を日々改善し、そのための努力を怠ってはならないことは言うまでもないことであるが、医師から投与を指示された薬剤を取り違えないことは、いついかなる場合においても、看護婦の患者に対する基本的な義務であり、怠ることの許されない義務であると言わなければならない。

しかしながら、被告人A子は、本件後直ちに自らの薬剤取り違えの過誤に気づき、勇気を出して、応急措置中の医師にその過誤を告白し、その後婦長などにも自分の過誤を申告し、また、翌日には院長や副院長の出席していた会議の場でも、薬剤の取り違えの経緯について説明し、被害者が死亡したのは薬剤の取り違えが原因である旨述べており、また、被告人B子も、当初は、本件に関与していることからの動揺と自分の過誤を否定したいという気持ちから、被害者に投与した注射器に「ヘパ生」と書いてあった旨述べたり、その旨報告書に書いたりもしたが、その後、警察での取調べでは、「ヘパ生」を確認したというのは勘違いであり、実際には良く確認していなかった旨正直に供述しており、被告人両名とも本件について深く反省し、被告人A子は「死んでお詫びをしよう」と思い詰めたこともあること、被告人両名とも使命感を抱いて看護婦になり、これまで長短はあるものの数年間にわたり、いずれも誠実に看護業務を遂行してきたのであり、周囲の信頼も厚く、前科前歴もないこと、本件で被告人A子は停職処分を、被告人B子は戒告処分を受けていることなど、被告人両名のために酌むべき諸事情を考慮すれば、主文掲記のそれぞれの刑に処した上、いずれもその執行を猶予するのを相当とする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小倉正三 裁判官 森本加奈 野澤晃一)

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